嘘だって判ってる
獣じみた交わりしか、出来ない
032:どうか笑って、僕のことが少しでも好きならば
葵は写真館の戸締りをしてから居住している階上へ向かった。きしきしと慣らす階段の踏み音が愉しげなのは今夜やっと葛と閨をともに出来るからだ。葛は厳格で潔癖で、機嫌を損ねればそれこそ長丁場を覚悟しなければならない。不規則に申しつけられる本業を持つ身であるのは同じだから、体の熱は発散できるときにしておくに限る。同じ理由で葵と葛は交渉相手として双方に白羽を立てた。暗い廊下を歩きながら一筋橙の線が奔っているのが見えた。ひょこりと子供のように覗きこむ。立てつけが悪く蝶番が軋んで扉を押した音がする。それでもそれに気付かないのか葛は戸口に背を向けたままだった。
寝台に腰を下ろして膝の上へ肘をついている。普段はシャツの袖に隠れている肘の尖り具合が腕まくりをしているので見える。現像作業でもしていたのだろう。上着も着ていない。細く白い指が網目のように組まれ、そこへ顔を半ば伏せている。上目遣いの漆黒の双眸だけが肉食獣のそれのようにぎらりと煌めいている。纏う雰囲気がとげとげしい。迂闊に近寄れないようなびりびりとしたそれは小動物の威嚇にも似て、葵にはなんだか怯えているようにも見えた。調えられた黒絹の短髪に白磁の額。通った鼻梁に化粧したかのような黛と切れあがった眦。もともとの骨格がよいのだろうことに加えて適正な訓練を受けたものとして綺麗に筋肉がついた体をしている。関節は案外柔軟で強靭だ。葵は葛って黒豹に似ているなぁと常々思っている。こちらから手を出さねば何もしないし意識の埒外だ。だがひとたび敵であると認識されれば容赦なく爪も立てるし噛みついても来る。葛の戦闘を何度か見ているが流れる動きで相手をいなし、同時に痛手を被らせて確実に戦力外へ押しやっていくのは奇妙に手慣れていた。手加減も出来る。無差別的な破壊というのは案外簡単で、リミッターを外せばよいだけなのだ。我慢や堪えや甘さや優しさを消してやればいい。葛はそれが出来ることを判ったうえで手加減をしている。葛ほどの腕前ならいろんなところからお呼びがかかったろうにと思ってから、特殊能力に想いが至って、あぁ、と納得する。葵と葛を出会わせてくれたのもこの特殊能力のおかげであったのだから。
「かーずら」
今度は思いっきり扉を圧してぎぎぎぎと軋み音を上げさせた。不意に葛がびくっと肩を跳ね上げたが葵の姿に力が抜ける。平素から表情の変わらない葛であるから少しの乱れも珍しい。葵はそれを心中で愉しみながら歩み寄った。
「どうかしたか? 難しい顔しちゃってさ。女の子に好きですとか言われちゃった?」
クックッと笑って葵は葛の隣へどさりと座った。紐で足首まで固めるごつい靴を重たげに両足を投げ出す。無作法にはうるさい葛が何も言わない。葛は共有の場所については言わないが、己の領域においては作法に厳しい。それを他者にも強いるのだが、今回の葵の横柄さには一言あってしかるべきだった。それがない。何事か言われると身構えていた葵の方も肩透かしのようで据わりが悪い。
「ホントにどうした? 気が乗らないなら無理強いはしないぜ」
「俺の本当の名前について考えていた」
組織の上層部が強いたのは葵と葛の共同生活や大陸に馴染むこと、裏稼業のほかに偽名を強いた。出会った時点ですでに偽名を与えられ、それで生活していたから互いの本名は知らない。組織は私情の挟まりやすい結びつきは嫌ったし懲罰もあったから葵と葛はお互い偽名で世間的にも、まして閨でもそれで通していた。
「どうして今。あぁ別に責めてるわけじゃないんだ、なんで、今、気になったのかと思ってさ」
留学経験もある葵はどうしても言葉に身ぶり手ぶりが加わる。そうでなければ不敵に笑って頬杖をついている。
「葵、俺達は枕を交わしている」
「そうだな、お前がもうちょっと素直になってくれたら嬉しい限りだ」
睨みつける葛に葵は両手を上げてあっさり謝罪する。
「悪かった、口が滑ったんだ、でも赦してくれよ、だってこれから二人で寝れると思ってお前の部屋に来たもんだから頭の中がそれでいっぱいなんだ」
「だから考えなしだという。能力を無造作に使いすぎるお前の悪い癖もそこに起因しているようだな」
「使えるものを使わない手はないぜ」
くふんと嫌らしく笑う葵の言外の意味に気付いた葛の頬が火照る。切れあがった眦の目元が紅い。卓上灯の橙は艶めかしく二人の男を舐め照らす。
「だいたいにして名前なんて都合のいい呼び名だ。記号だよ。『三好』『葵』『写真館の兄さん』まだまだある。知らないだけで糞野郎なんて罵られてるかもしれない」
葛が目を伏せる。葵が言ったことくらい葛は疾うに判っているはずだ。葵は葛の脳みその回転の速さや判断力は一級品だと承知している。葵は体をかがめて靴紐を解いた。順繰りに緩めていき、足首を前後させて空間をつくってから脚を引き抜く。それをもう一度繰り返す。
「葵、本当の名前さえ教えられない俺は、公平じゃない」
「公平じゃないことぐらいそこらじゅうにあるぜ。港湾地区へ行けよ。浮浪児がごろごろいるし日雇いだって多い」
葛がぐっと黙った。葵は靴で固められていた足首をほぐすように揉んだり動かしたりする。
「オレ達がこういう暮らしをしていること自体を責める連中だっている筈だ。だからこれはオレ達の力なんだよ。オレ達の戦力。そりゃあ世間体っていう枷はあるけどその分、毎日の飯と寝床に困らないという力になってる。あぁもう、オレがこういう説明苦手なの知ってるだろう、葛! オレ達の境遇も全部ひっくるめてオレ達なんだよ!」
葵の手が葛の衿を掴んで寝台へ引っ張り上げて押し倒す。釦が弛んで合わせ目から素肌が見える。葛も抵抗しない。二人にとっては了承済みの行為が行われるだけなのだ。
「葛、お前は独りなんかじゃない。『伊波葛』じゃないお前だってもちろんいる。でもオレは、目の前にいるお前が好きなんだ、愛してる、大好きだ。お前が『伊波葛』じゃなくてもいい。別の名前だったとかオレに教えた境遇は嘘だったとか、そんなことじゃあ怒らない。そのくらいにはオレは、お前に惚れてるつもりだよ」
葵の肉桂色の双眸は橙の艶を帯びて葛の漆黒へ移りこむ。鬼灯のように色づいて落果しそうな艶を帯びている。肉桂の短髪は榛に色づいてきらきらと不規則明かりを反射した。葛はをそれを見ながらあぁ綺麗だなと場違いに思った。葵は今葛の我儘や言いがかりとしか思えない台詞に本気で立ち向かってくれている。それだけでいいような気がした。不安に対して何か言ってくれる人がいるというのは、それは恵まれていることなのではないか?
「かずら」
葵は黒曜石の双眸を見つめて気付いた。潤んでいる。涙が溜まって皮膜のように眼球を覆っている。泣きたいほど不安なことなの? 葛が『伊波葛』じゃないことを、オレがそんなに気にすると思っているの? それとも――
葛自身が『伊波葛』でいることが嫌なの?
立場は同等だ。葛と同じように葵だって『三好葵』という名でこの地で生活しているのだ。本名を明かしたことはない。実母から体の次にもらった名前で、葵は暮らしていない。
だから、かな
葵と母親のつながりは案外淡白だ。葵が留学と称して飛び出してしまったせいもあるだろう。真っ当な家庭ではなかったことも影響しているだろう。だが葛はきっと違うのだ。葛はきっと真っ当な家庭で、真っ当に生きてきた。でも、だからこそ葛はなんて綺麗で魅力的なんだろう。
白皙の美貌もあるが葛の性根が、綺麗なのだ。毀そうとも汚そうとも思わなかった。その綺麗なままでいてほしかった。『葛』は葵にはないものをたくさん持っていて、ずるい、でも綺麗、うらやましい、素敵。一緒にいられることが嬉しい。一緒にご飯を食べたり買い出しに出かけたり、時折一緒に出張したり。そう言った愉しさが、そう言った全部が。葛が『葛』であることを否定してしまったら。オレのこの嬉しさとか愉しさとかそういうものは方向性さえなくしてただ消えてしまうしかないじゃないか。
「かずら、ごめんね。オレの我儘だけどさ、『伊波葛』がオレには必要だよ」
唇が重なった。行き交う熱の流動を葛は拒否しない。葛の熱が触れ合う箇所から沁み渡るように葵の体へ沁み、同時に葛の方へ葵の熱が染みだしていく。重ねた唇はその皮膚さえ融けあったように境界線を失くした。
「武士の子であることを忘れてはなりません」
葛の声が玲瓏と響いた。葵は黙ってその余韻さえも震えながら聞いた。
「俺をしつけた人の言葉だ。いつも言われた。それが俺の全てだった」
「だったら新しく何か覚えればいいのさ。覚えちゃいけないなんてその人も言わないだろ? 忘れないままで新しいことを覚えればいいんだ」
にぱ、と葵が笑う。押し倒された体勢の優劣を感じさせない笑みだ。葵は葛を抑えこんでいるがその優越は微塵も感じていないし表しもしない。その笑顔のまま葵は葛の首筋へ顔を寄せた。頬をすり合わせたかと思えば白い首筋へ思い切り歯を立てる。がりっと固いものを齧るような音をさせて紅い飛沫がぱたた、と敷布に散る。痛みの悲鳴を殺して引き結んだ葛の口元が引き攣っている。しかめられた顔に葵は口を放した。唇が紅い。
「葛の肌って白いから、紅はひどく似合うよ」
濡れて紅い舌先が葵の唇を舐め拭う。嚥下した唾液が鉄錆の味がした。
「なぁ、かずら」
葵は狂おしい衝動がどこから来るのか判らない。噛みつくつもりもなかったのに今口の中には葛の皮膚片がある。
「公平じゃないとか、真っ当じゃないとか、そんなこと、はじめっから判ってたろ?」
ジグザグに引きちぎれた葛の首筋から出血がある。血管を破ってはいないらしく出血と言っても敷布がじわじわ沁みていく程度だ。痛みに歯を食いしばる葛のこめかみを脂汗が伝う。額や喉や、びっしりと浮かんだ玉のような汗を葵は丹念に舐め拭った。
「オレは葛がなんであっても気にしない。だからさ」
「だからせめてオレの前では笑っていてよ?」
狂ってる。
疾うに狂ってる。
でもせめて君の、
君の笑顔をみるまでは、それまではせめて。
君の本当の名前なんてどうでもいいんだよ
オレの本当の名前は――
君の本当の名前は――
「オレ達は普通じゃない、だからせめて普通の望みくらい望んだって構わないって思わないか」
好きな人には笑っていてほしい
「狂人は、己が狂人であるとは思わぬらしいな」
玲瓏とした葛の声は心地よく耳に響いた。
「そうだよ、だからオレ達がすがる世界なんてもしかしたらもうとっくに毀れているかもしれないよ?」
アハハハハハハハハッハッハハハハ!
葵の甲高く耳障りな哄笑が響いた。葛は首筋の噛みちぎられた痛みを堪えながらも笑いだしたかった。
この痛みは俺が生きているという証だ
「あおい」
強引に唇を重ねて笑みを止める。唾液が深く混じり合う。葵の手が葛のシャツを裂いた。釦が飛び散る。二人はこうしていつも憎しみ合うように抱擁を繰り返す。甘ったるい睦み事は絵空事でしかないのだ。
卓上灯のオイルが燃え尽きて部屋に闇が満ちた。月光がさんさんと降り注ぐ寝台で二人分の人影が蠢いていた。
《了》